日日是好日

「こんにちはー!」って毎日でっかい声出すのも飽きてきたな。
でも、飽きてきただけで営業きついと思わなくなってきたのは良いことかも。ちょっと前まではお客さんに断られるのが嫌で怖くてきついって感じてた。

最近はそれが無くなって「イチローですら3割なんだから俺なんか1割でいけば上等だ」って思えるようになってきたんだ。

そもそも飛び込み営業なんかニーズが無いところに向かって営業かけるわけだから結果が悪いなんて当然なんだよね。
それに関わらず結果を求め、求められるからストレスが大きくなるんだよな。これを理解しないで自分自身に結果を求め続けるからパンクしそうになっちゃうし、きついとも感じるし合わないとも感じちゃう。
でもちゃんと理解して自分の能力、モチベーションと向き合えば、今の俺みたいになんとなく自分の営業スタイル見つかるし、のらりくらりかわしていける。

1番きつい時よく耐えたと我ながら思う。人生で初めて人に相談するってことをしたかも。あの時相談してたのが所長じゃなかったら今の俺は確実にいないな。

俺より後に入って先に辞めた人もいっぱい見てきた。そういう人たちで傷の舐め合いしちゃってたんだろうな。

経験浅い人ほど営業きついっていうのが今になって分かってきた。自分が可愛いから環境とかお客さんのせいにして泣き言言っちゃうんだよね。
営業初めてまだ8ヶ月くらいだけど人は変わるもんだね。吸ってるたばこも変わったし。

所長と部長いつもありがとう。主任はもうちょい仕事出来るようになって。

文章は相変わらずまとまらない

まだ1週間そこらしか本物の社会人と接してないけど、1つ気づいたことがある。僕が今まで自意識過剰だったということだ。

僕の言う自意識過剰とは、「「みなとみらいの小洒落た店で優雅にランチを食べるのが恥ずかしい」と思っている」。そんな類の話だ。

これは本当にその行為がみっともなくて、恥ずかしいと思っているのではなく、自分がそんな気取ったことをしているのが嫌だということなのだ。そんなの誰も気にしていないのは重々承知だ。だからこその自意識過剰なのである。

「スカしたことしてんじゃねえよ気持ちわりい」と言う根も葉もない蔑みが、僕の心の奥底にあり、それがこの自意識過剰を作り上げたのだろう。何をしていても、他人が見たらどう思うのだろう。という疑問ばかり浮かんでくるようになってしまっていた。

僕が人の目を気にするのは、自分が他者にしていた蔑みが自分自身に振りかからないよう、逃げ続けているからだ。自分のことは棚に上げるようなことはなるべくしたくない。だから僕は、僕にできないことができる人の価値を下げ、自己肯定を続けていたのだ。とんだクソ野郎である。

未だに僕は、「自分は自分、他人は他人」と開き直ることができない。しかし、最近なんとなく打開策を練っている。
今まで他人の評価を下げることで、自分を肯定していた。すると、僕と同じようなクソ野郎。あるいは僕自身が、僕を同じ目に遭わせる。それを止めさせるには、他人を肯定する他ない。

みなとみらいの小洒落た店で優雅にランチを食べることを肯定すれば、僕が同じことをしても否定してくる人はこの世からいなくなる。


物は試しとこの間会社に、新卒が生意気かと思いつつスリーピースを着て行ってみた。
それを否定する人間はこの世に誰もいなかった。

春爛漫

僕もすっかり一介の社会人だ。
社会になにをもたらした訳ではないが、お給料を貰うために会社に行っているのだからそれだけで十分だろう。

本物の社会人からすればガキが何言ってんだといったところだろうが、僕は社会を構成する1人になれたことに満足している。

しかし、小学生時分の僕が今の僕を見たら鼻垂らしながら「なにやってんだよ!?」と殴りかかってくるだろう。
あの頃の僕は本気で漁師になりたいと思っていた。漁師ではないにしろ、毎日ネクタイを締めて満員電車に揺られる人種にだけはなりたくなかったのだ。当時は何となく頭がよかった自分自身を恨んだりもしてた。何となく勉強が出来るから、周りから期待され当然のように大学にいき、なんでもないサラリーマンになる事を義務付けられたような気がしたからだ。


最近自己否定しがちだ。理想が崩れ去っていくことへの喪失感、理想とあまりにかけ離れていることへの焦燥感。理由はよく分からない。分かるのは、とにかく自分がダメだから現状がこうなんだという事だけ。

そのうちに僕は自分に価値が無いと思いだす。理想を掴むに値する価値が無いから、理想はどんどん崩れるし遠ざかる。そしてその足りない価値を、現状で埋めるため僕は、理想のハードルを下げる。しかしそれは、ただの独りよがりだ。今の自分にとっても理想の中を生きる僕にとっても
愉快なことではない。


強い人はここで奮起し、理想を掴み追い越すために逞しく立ち上がる。
本当に理想の自分になりたいのなら当然の行動だ。
そんなことはとうの昔に承知している。
承知していたところで、それを実行できる人はこの世に何人いるだろう。2人くらいしかいないと思う。


自分が頑張れない理由を求め、自己啓発本や音楽に頼っても気休めにしかならない。(気休めになるなら十分か)


結局、僕はくそ雑魚だからこの自己否定には勝てないのだ。唯一勝機があるとすれば、何か没頭できるものを見つけた時しかない。このめんどくさい考え事そのものを忘れることができるからだ。

解決ではなく遮断した時、僕の勝利が訪れる。

大人になって読み返したら「何言ってんだこのクソガキは」ってなりそう

世の中に蔓延る僕が気に食わない物について。それらに対してどう接すれば、少しでも僕の機嫌を損なわずに済むか日々考えている。

僕は昔から、人に相談するということが出来ない人間だった。だからか自分の内側にあるモヤモヤを、自分の中で消化することが出来る様に進化した。

子供の頃はそれでよかったが、大人に近づくにつれ考えることもいっちょ前に大人っぽくなってくる。そうなってくると、なんとなく「まあいいや」では消化しきれず、胃もたれを起こしてしまうことが多くなる。

最近は「まあいいや」ではなく「うるせえよターコ」という技を覚えたので、いくらかよくなった。
あとタバコ。これは考え事してる時の最強アイテム。考えに考えて、知恵熱出るんじゃないかってくらいまで考えてから、外にタバコ吸いに行くとその1本が美味すぎて全部どうでもよくなる。まじでオススメだからみんなタバコ吸った方がいい。

そんなことばかりしているからか、結局どれだけ考えても解決策は見つからない。気に入らない物たちは容赦なく僕の機嫌を損ねてくる。
彼らに対して僕がどれだけ角度を変えて接してもだ。どうしようもないということに気づいてるだけでもまだいいのかもしれない。

気に入らないことに対してこれだけ考え込むということが、そもそも死ぬほど腹立つけど世の中に変われと言うのもおこがましいので仕方ない。
自分以外の全てが気に入らない夜もある。そんな日は、明日になったら世の中か僕のどちらかが、なんとなく都合のいいように変わってればいいなと期待を込めて布団に入るのだ。

俺もなんか書きたかっただけ

僕と言う人間は自信家に思われがちかもしれない。けど、全然そんなことないんだよね。仲良くしてくれる周りの人達が、輝いて見えて劣等感で押しつぶされちゃいそうになるから虚勢張ってるだけ。僕がクソガキの頃からの悪い癖だ。

小学生の頃から両さんと寅さんに憧れて、気風のいい男になろうと頑張っていたし、中学高校大学と精神が大人に近づいてからも「何か」を演じて、「何か」になろうとしてきた。でもそれが功を奏したのか、僕の本質もそれに近づいてきている感じがする。とはいえ、根っこの部分は変えることはできない。本当は根暗で皮肉っぽいやつ。それを知ってるのは僕自身とお母さんだけ。おばあちゃんは多分知らない。伶菜ちゃんにはちょっとずつバレてきてるかも。

自分がどこに向かっているのかなんだかよく分からないけど、これで今まででやってこれたし無理に方向転換しないのが吉かもしれない。ただ、久しぶりに会ったら「お前なんか変わったよな」と言われるかもしれないから、僕の求める「何か」を突き詰めるスピードは緩やかにしなくてはならない。

人前の僕と人に見られていない時の僕は少し違うかもしれない。だからと言って、影で人を見下してるとか、本当はめちゃめちゃ気遣ってるとかそういうことはない。気遣うとしたら自分に一番気遣ってるしね。

まあ結局何が言いたいかって、いつも何かに縋っているめんどくさい人間だけど、これからも仲良くしてくださいって話。

文章がまとまらなすぎて、最後諦めてる。

店員の不手際でこの前買った洗濯機を買い換えることになった。

不手際と言うのも、店員の単なる勉強不足故のものだ。
50代中頃だろうか。今思えばうだつの上がらなそうな店員だった。
しかたないので今日、そいつのアポを取り足労をかけて洗濯機を買いに行った。お前が来いよって話だが、洗濯機を何台も持ってこさせるわけにもいかない。

彼の今日の対応、前回の対応と気になる点を挙げればキリがないので割愛するが、彼はとにかく気をつかえない。要領が悪い。

母も僕も相当苛立っていたし、それを前面に押し出していた。それを察知したのか、前回より少し顔が強ばり、滑舌が悪くなっていたように思える。

ともあれ、無事新しい洗濯機を購入し手続きや支払いの段階にたどり着いた。そこで彼はレジの人とバトンタッチし、僕にご成約記念の景品を渡してきた。
「一言詫びろよタコスケが」と思いつつそれを受け取り手続きが済むのを待っていた。
彼はと言うと、レジの周りで書類を確認する振りをして僕達の様子を伺っていたのだ。

全ての手続きが終わり、さて帰るかという時に彼が、待ってましたと言わんばかりにヘラヘラしながら「へへっ、すいませんでした笑」と言ってきたので、僕は「このおやじ泣かせてやろうかな」と店の中でうっかりぱちキレてしまった。感情的に暴言を吐くなどということはしなかったが、人目も憚らず声を荒らげ、仮にも目上の人を説教してしまったのは反省すべきだと感じている。

まじで普通に怒った。感情論一切抜きでこんこんと詰めた、店内BGMよりちょっと大きい声で。多分反省してくれたと思う。別に泣いてなかったけどね。

帰り道、助手席の母に言われたのは
「あんたちゃんと人の事怒れるんだね」

東芝 ZABOON

実家の店を手伝い、体を粉まみれにした後、洗濯機を買いに行った。この時母は、フラワーアレンジメント教室帰りなので汚いエプロン姿ではない。悠長なものだ。

しかし久しぶりに家電量販店に行くとテンションが上がってしまうのは男の子の性である。あるいは、日頃から行っている童心を捨てない訓練の賜物だろう。

母が独自のルートを使い大幅な値引きを強要している間、僕は店内を見て回った。どの商品を見ても、圧倒的な「臨場感」「ライブ感」がひしひしと僕の五感に突き刺さる。スマホの画面からは到底得られないものだ。スーパーベーシストであると共に僕の親友という側面も持つオギノが、ネットショッピングを利用しないワケはこれなのかと考えていた。

ふらふらとしていると僕は良くないことを考え出す。「おかんが商談してる間になんか買ったらおもしろくね」
おもしろくない。
こういう時は大概何か欲しいものがあるわけではない。
人々がマイケル・ジャクソンに「KING OF POP」という称号を与えたように、僕にも「テンション上がってなんか衝動買いしちゃったバカ」という称号を与えて欲しいのだ。もっとも、その称号を与えて貰おうと僕が働きかけるのは、他ならぬ母であり、伶菜ちゃんであることが常である

しかしこの両名、僕のそれを許すことはほとんどない。僕がニヤニヤしながら何か商品を持って歩いていると「いらないでしょ」「何に使うの」「そういう買い物するからお金無くなるんだよ」と優しくたしなめてくれる。いつもありがとう。
ちなみに今日の気分は強めの電動歯ブラシだった。